ルレクチェは、1882年にフランスにて育成され、類い稀なる品質がゆえに、一時は全世界に広まりました。
ただその栽培の難しさから、現在は日本国内に現存しているだけのようです。

なぜ西洋梨「ルレクチェ」が新潟に根付いたのか


西洋梨「ルレクチェ」が新潟に根付いた理由は、1万年以上前から、河川の氾濫等によって育まれた沖積土壌の豊かな地力と、100年以上前にフランスから渡ってきたルレクチェの相性が抜群に良かったからと考えられています。

いにしえに存在した、新潟県中央部の大きな三角州と、現在ナシが盛んに作られている産地が見事に重なることを見ると身震いしてしまいます。

なぜ渡辺果樹園にルレクチェが導入されたのか?

『変態系新し物好き』の親父の感性に響くものがあったようです。


父は3年前に他界したのですが、母と結婚したのが1960年頃(?)。

母をお嫁さんと迎えた父は、母の本家、加茂市の親父さんがルレクチェを作りこなしていることに感銘を受けました。

当時はナシと言えば20世紀梨で、まさしく主流でした。
ルレクチェは、100年以上前に日本に入ってきつつも、栽培方法も追熟方法も確立されておらず、50年以上日の目を見ていなかったのです。

そんな状況の中でルレクチェを本気に作ろうという人は県内でも限られていました。

父としては身内に栽培第一人者ができ、作るのは難しいが食べるとすこぶるうまく、見た目も非常に品があり
なおかつあまり人が作っていないという事が親父の『変態系新しもの好き栽培者魂』に火をつけたようです。

この『変態系新しもの好き栽培者魂』は、脈々と受け継がれている血なのか、ご先祖様もその昔、誰も作ってない「かりん」を作り、古い文献にも紹介されています。

魂だけでなく技術に対する貪欲さも

そして新しいもの安定させるにはやはり技術は要です。
渡辺の家系は技術にも貪欲のようです。


これは私の祖父が戦地から渡辺家を心配し祖母に宛てた手紙の数々です。技術的なことが面々と書かれており、
その技術が現代でも論じられている内容なので驚きました。

私は「愛の言葉のないラブレター」と思っているのですが、話が飛ぶので、この件はいずれまたこのブログで・・・

父は田んぼを埋めてルレクチェの面積を増やしました。
新しい畑で収穫したルレクチェの約半分が生理障害果であったり、その他苦労も数多くあったようです。

先程の父の写真は、ちょうど新しい畑でルレクチェがこれから実をつけようかといった時期の写真で、苦労しているはずの状況で、未来に溢れんばかりの光を感じてるような父の顔が印象的です。


そんな両親の努力があり、我が家のルレクチェは渡辺果樹園を支える基幹品種となりました。

 


ちなみに我が家の夏果実の化粧箱には[since1960]と明記してあります。

渡辺家としてはずっとずっと昔からあるようなのですが、1960年頃に両親が出会い、一緒になり、ルレクチェ導入したころだろうと、ざっくりと予想して、年数を記載しました。

敬意をこめて・・・